TVディレクターJ の半生メモ

己の半生を思い出してみた

人生一番最初の記憶、辿ってみる

40代半ばを迎える己の半生を綴るブログ

一番最初の記憶を思い出してみるが、

正しく時系列がわからないので

断片的に記憶として残っていることを、

まず見出し的に挙げてみよう。

 

・鍵っ子だった子供時代、

 家に入れず玄関横のドブで野グソ

 これが人生初のお母さんに嘘をついた日

 

・幼稚園の送迎バスで嘔吐、半裸で震えながら母の迎えを待つ

 

・一つ下の女の子をからかって傷つけてしまったら、翌日しっぺ返しにあう

 

最古の記憶、幼稚園より前のことは思い出せない

主だってエピソードになりそうなのは、この3つかなー

幼稚園時代でいうと、他にも

他にも、お弁当の日にお弁当を忘れて、先生のサンドイッチを分けてもらった思い出

卒園した日の夜、寂しくて枕に顔を埋めて泣いていたら

お姉ちゃんとお母さんにバレて笑われた日、

とか段々と色んなことを思い出してきたぞー

 

我が家は、亀有と金町の間に流れる中川の川っぺりに並ぶ小さな家で

祖母、父母、姉、弟の6人家族。

ニュースになるほどの貧困ではなかったが、絶対に裕福ではなかった

階級でいうなら、下の中くらいかな?

オヤジは、中卒で、文房具の卸しだとか、

なんの仕事をしていたか詳しく知らないまま山で滑落して、

僕が23歳の時に死んでしまったけど

会社が潰れたり、転職したりしていたのは覚えている

最後は銀行で働くお偉いさんが乗るハイヤーの運転手だった

今だからわかるけど、

中卒で今の僕くらいの年齢の時に転職するなんて結構やべーんだろうなぁ

一度だけ「給料いくら?」って聞いたことあるけど

確か、20万円くらいって言ってた気がする。そりゃ中の下なわけだ

お母さんは保険レディで、多分お父さんよりも稼いでたと思う。

子供の世話もしながら、働いて、親父に文句言われて喧嘩してって・・・

なんか哀しい思い出が湧き上がる(泣)

親との思い出はまた別のタイミングで書こう。

そう、うちは共働きでお母さんがずーっと家にはいなかったし

おばあちゃんは、内職をやっていて、

靴下を棚にぶら下げる時に引っ掛けるプラスチックのつっかけみたいなものを

通す仕事をしていた。言語化難しい。

ちなみに、おばあちゃんは内職で貯めたお金で

五木ひろしのディナーショーに行くことを人生の喜びにしていたなぁ

実家はとても小さく、今になって実家に帰ると

よくもここで6人も暮らせていたなぁとしみじみ思い更けることがある

 

1階は飯を食べる台所と8畳くらいの居間の2部屋

廊下なんてあるわけなく、

台所とガラス戸を挟んでお風呂がある不思議なレイアウト

お婆ちゃんは居間で寝て、起きてその場で内職してっていう生活

2階は襖で仕切られた部屋が3つ、

親の部屋とお姉ちゃんの部屋、僕は弟との相部屋

あと、小学5年生までボットン便所でした。

僕がインフルエンザにかかったことがないのは、このボットン便所とか

劣悪な環境で免疫ができていたのかもしれない

赤ちゃんを動物園に連れて行くと風邪をひきにくくなる。のに似た話かなと

 

話を幼稚園の時に戻すと

僕は乗り物酔いをよくするので

バスに乗るのを嫌がっていたのか、

はたまた寝坊していたのかは定かではないが

バスに乗らず、お母さんの自転車に乗って幼稚園まで送ってもらっていたのを思い出す。

今考えると、お母さんは働いていたのに

チャリで送ってくれるのって大変だったと思う。

お母さんには本当にありがたい気持ちでいっぱい。

 

上にあげた思い出エピソードを詳しく書こうと思ったけど

時間が来たのでまた別の機会に!