TVディレクターJ の半生メモ

己の半生を思い出してみた

そうたろーくんへ

勝手に心配してごめんな

ただ、心配なんだよお前のことが

だって、小学生から中3の今まで誰一人友達がいなくて

休み時間はただぼーっとしてるってきくし

おしゃべりがパパにして下手で、でもパパより酷くて、どもりもあって

何を夢見てるんだかわからないし

女のケツ追っかける感じもなさそうだし

人生楽しいのか?

いじめになってないだけまだ救われてるけど、ま、本当のことはわからないけど

わからないこと疑っていたら俺の胃袋が持たなくなるから

そこはないって信じてるよ

大谷選手が書いたっていう目標シート

何のためにい、どこに向かうために勉強しているのか

自分で意識をちゃんと持った方がいいと思って

目標シート渡したけど、約束の期日も平気で遅らせて

挙げ句の果てには、わからないって

そりゃ、心配しちゃうよ、

俺はいい点取れなんて、少ししか思わないけど

そこで怒ることはないけど

何も考えようとせず、い言い訳ばかりする姿に自分を反省するよ

しっかり、育てたれなかったなあって

子育てにもっと真剣に向き合うべき、時間を作るべきだった

本当に、俺は最低、でも、そんな親父を反面教師にしてくれているおかげで

根は糞真面目、んー、早くはめを外してほしい、もっと自分を解放するんだ!

大きな声を出せ!勇気を持て!自信を持て!興味を持って!

夢を持って!

何が楽しいの?ユーチューブ見てるのが、ゲーム実況見てるのが

そんなに楽しいの?

何も生み出してないよ、それは親の勝手な思い込みなのか?

でもさ、友達が誰もいない生活なんて自分が当時の状態だったら

耐えられないよ、死んじゃうよ、何とかしようと思うよ

友達欲しくないの?

何があったの?何をしてしまったの?本当にごめん、育て方が間違っちゃのかな?

運が悪かったのか?

そんなこと心配しなくていいのかな?

ほっといてくれよって感じなのかな?まあ、俺に対してはそうだろうな

でも、楽しく生きてほしんだよ!

お前が、楽しく毎日やってるって感じが伝わってくるだけで安心するんだけどな

親の心、子知らず ほんとその通り、そんなものか

もっと、器用に生きてくれ

お前のためにお金残せるように投資始めたから

最悪、何もしなくても生きていけるようにするから

 

でも、目標持って楽しく生きてくれ!

 

そこの感覚も鈍っているの?

自分が貧乏だと気付いた出来事

自分の家が貧しいことに気がついた出来事

 

小学5年生の時、友達のkくんと遊んでいた時の

たわいもない会話。ここで一つ気付かされた

「好きな食べ物なに?」theな王道的な会話

アイドルのインタビューに必ずあるが対して目立たない質問

アンケート用紙やプロフィールに欠かせないがベタな質問

しかし、質問者と受け手は同じ人物で小5

ちなみにkくんは絶対に僕だけの意見だが、

中川のビートたけし、亀有の松本人志と心の中で称しているほど

面白い人なのだ、昔からからの面白さに惚れている、尊敬している

本当に楽しい自分だ、彼のおかげで自分の微かなユーモアセンスも磨かれたと思う。

彼は、タバコが原因で高校を中退して、

稼業でもあるサイディング屋、いわゆる壁関係の職人になって

高校生だった僕からしたら結構なお金を稼いでいた。いつも奢ってくれてた。

今ほど世の中がクソまじめになってなかった時代だからなのか、亀有という土地柄なのかは

知らないけど、高校生でも楽勝で居酒屋に入れたなぁ。

今でも変わらず?そこはわからないが

で、

高校を卒業するまで、毎日のように遊んでいた、大人になるまで

大人になってから彼とした会話に、

「もしお前が芸人やろって誘われてたらやってたかも」

かも の話なので真偽のほどは定かではないが

その言葉は嬉しかったし、実際に誘ってみようと思ったこともあった。

あの当時の調子に乗った勢いだけで行きていけたのだろうか?

社会に出るのと一緒で先輩や売れたヤツから鼻を折られていただろうか?

と、話は脱線したが、そんな彼の質問に対し、僕が答えたのは

お好み焼き」実に子供らしいではないか!と誰もが思っていただけるだろうが

利き手も子供、彼が僕の「お好み焼き」に対して言い放った言葉が

「やっすいもん好きだな」

基本僕は打たれ弱いので、当然のごとくショックを受けた傷ついた

ちなみに彼の好きな食べ物はステーキ

実に金持ちらしい答えだ

今になって思うと、彼の家もそこまで金持ちではないが

明らかにウチより金持ちということを当時の僕は悟った

俺は、やっすいもんが好きなのか!? 以降、「僕」は「俺」に変えます

ステーキ、俺、食ったことねぇぞ

食ったことないのが気づきの理由だろう。

ステーキがなんなのかは知っていた

外食なども年に数回レベルでステーキを生で見たこともなかったもしれない

ステーキなんて高級品、申し訳なくて頼めない。

あ、俺、家がビンボーだってもっと前に知っていた

ただ、貧乏という現実を突きつけられた衝撃でこのことを覚えているのだろう

その後、彼のお父さんの給料が80万円だと自慢げに言ってきたあとで

自分の親父の給料が20万だということを聞いて、なおさらショックを受けた

 

そして2つ目は、五十円のアイスと百円のアイスの件で

親父に怒られた時、

これも小5くらいの出来事で本当におぼろげな記憶だが、

その時の家の冷蔵庫には50円のアイスしかなくて

俺は100円のちょっと贅沢なアイスを食べたいと文句を言ってたと思う

その時の親父の返しが「いつでも買ってやるから今は家にあるヤツを食べろ」

といったニュアンスものだったが、

さらにその言葉に対して俺が、父の元を離れながら捨て台詞のように

「とか言って、いつも買ってくれないじゃん」的なことを吐き捨てたら

親父が「おいこら、今なんつった」とすごい剣幕で俺のもとに近づき

怒りに声が震えてた記憶があるが「お父さんだってな、100円のアイスくらい

いつでも買えるんだ、うちはそこまで貧乏じゃない」ってめちゃくちゃキレられた

こんなセリフを親父が言っちゃうって、やっぱ貧乏だったんだなーって

 

あと、未だにだが、うちにはチャイムがない

扉も木だし、ノックすれば家に響き渡るような家だったし・・・

それが、本当に恥ずかしかった

 

実家が恥ずかしいと思えてきたのは、社会に出てからですね

それまでは、近所もそんな感じだし、友達も同じような環境だったから

ベーシックだと思ってた。

だから俺は金への執着が強いのかもしれない

貧乏人じゃなくても誰でもそうか、

 

書いてて思い出した!

俺は小学一年生で貧乏だと気付いていた!

それは初めての万引きが小1だったからだ!

 

続きはどこかで!

 

 

思い出し作業は、哀しくなるが楽しい、

初心に戻してくれる

昨年の心の事故でなんか心が苦しい時が未だにあるが

文字を打ち込んでると夢中になれて忘れられる

 

 

 

 

 

人生一番最初の記憶、辿ってみる

40代半ばを迎える己の半生を綴るブログ

一番最初の記憶を思い出してみるが、

正しく時系列がわからないので

断片的に記憶として残っていることを、

まず見出し的に挙げてみよう。

 

・鍵っ子だった子供時代、

 家に入れず玄関横のドブで野グソ

 これが人生初のお母さんに嘘をついた日

 

・幼稚園の送迎バスで嘔吐、半裸で震えながら母の迎えを待つ

 

・一つ下の女の子をからかって傷つけてしまったら、翌日しっぺ返しにあう

 

最古の記憶、幼稚園より前のことは思い出せない

主だってエピソードになりそうなのは、この3つかなー

幼稚園時代でいうと、他にも

他にも、お弁当の日にお弁当を忘れて、先生のサンドイッチを分けてもらった思い出

卒園した日の夜、寂しくて枕に顔を埋めて泣いていたら

お姉ちゃんとお母さんにバレて笑われた日、

とか段々と色んなことを思い出してきたぞー

 

我が家は、亀有と金町の間に流れる中川の川っぺりに並ぶ小さな家で

祖母、父母、姉、弟の6人家族。

ニュースになるほどの貧困ではなかったが、絶対に裕福ではなかった

階級でいうなら、下の中くらいかな?

オヤジは、中卒で、文房具の卸しだとか、

なんの仕事をしていたか詳しく知らないまま山で滑落して、

僕が23歳の時に死んでしまったけど

会社が潰れたり、転職したりしていたのは覚えている

最後は銀行で働くお偉いさんが乗るハイヤーの運転手だった

今だからわかるけど、

中卒で今の僕くらいの年齢の時に転職するなんて結構やべーんだろうなぁ

一度だけ「給料いくら?」って聞いたことあるけど

確か、20万円くらいって言ってた気がする。そりゃ中の下なわけだ

お母さんは保険レディで、多分お父さんよりも稼いでたと思う。

子供の世話もしながら、働いて、親父に文句言われて喧嘩してって・・・

なんか哀しい思い出が湧き上がる(泣)

親との思い出はまた別のタイミングで書こう。

そう、うちは共働きでお母さんがずーっと家にはいなかったし

おばあちゃんは、内職をやっていて、

靴下を棚にぶら下げる時に引っ掛けるプラスチックのつっかけみたいなものを

通す仕事をしていた。言語化難しい。

ちなみに、おばあちゃんは内職で貯めたお金で

五木ひろしのディナーショーに行くことを人生の喜びにしていたなぁ

実家はとても小さく、今になって実家に帰ると

よくもここで6人も暮らせていたなぁとしみじみ思い更けることがある

 

1階は飯を食べる台所と8畳くらいの居間の2部屋

廊下なんてあるわけなく、

台所とガラス戸を挟んでお風呂がある不思議なレイアウト

お婆ちゃんは居間で寝て、起きてその場で内職してっていう生活

2階は襖で仕切られた部屋が3つ、

親の部屋とお姉ちゃんの部屋、僕は弟との相部屋

あと、小学5年生までボットン便所でした。

僕がインフルエンザにかかったことがないのは、このボットン便所とか

劣悪な環境で免疫ができていたのかもしれない

赤ちゃんを動物園に連れて行くと風邪をひきにくくなる。のに似た話かなと

 

話を幼稚園の時に戻すと

僕は乗り物酔いをよくするので

バスに乗るのを嫌がっていたのか、

はたまた寝坊していたのかは定かではないが

バスに乗らず、お母さんの自転車に乗って幼稚園まで送ってもらっていたのを思い出す。

今考えると、お母さんは働いていたのに

チャリで送ってくれるのって大変だったと思う。

お母さんには本当にありがたい気持ちでいっぱい。

 

上にあげた思い出エピソードを詳しく書こうと思ったけど

時間が来たのでまた別の機会に!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私、生まれは足立区、育ちは亀有、生業はTVディレクター

私、生まれは足立区のゲットー中川町で生をいただき

青春時代を葛飾亀有で謳歌

小学生の頃からの夢だったTVディレクターを生業とし

自分で言うのもアレですが、仕事はそれなりに順調に駒を進めてきました。

 

今回、このブログをやろうと思った理由はいくつかあるのですが

そのひとつとして、

昨年に2つの担当番組がなくなったことで、

ちょっとばかり持て余す時間ができたので

色々自分の人生について考えてみようっていうオジさんあるある?的な衝動と

子供が2人いるのですが、僕があまりトークが上手くなく、

子供とのコミュニケーションも上手く取れてないので、

いつの日か、これを子供たちが目にして、

ダメなパパの知られざる人生と息子たちへの思い家族への思いなどを知ってもらおう

っていう遺書的な狙い、

あとは

僕の人生の目標というか夢で映画を一本撮りたいので

僕の半生が自書伝的な感じで物語になったらいいなあ 

なんて狙いもあって始めてみました。

 

 

とりあえず、僕の40年、

ゆっくりと綴って自分を見つめ直してみようと思います。

てことで、まずは一番最初の記憶まで飛んでみます!